文章番号:20070
 
 
第6章 : 東アジアと東南アジア
 

 
   
  東アジアと東南アジア
   
   WHOは、もしも効果的なHIV予防措置がとられなければ、90年代半ばから後半にはアジアの年間の新規感染者数はアフリカを追い抜くだろう、と推定している。アジアでの感染の拡大はアフリカより10年ほど遅れて始まったが、現在の南アジアや東南アジアには、10年前のサブ・サハラ並みの高いHIV感染率を示す人口集団がいくつか存在 する。しかも人口規模の違いを考えると、アジアでの拡大が本格化すれば、その影響は現在のアフリカの事態などとは比較にならないほど大きくなる可能性がある。
     
     幸いに、各国の総人口に対するHIV感染率は、エイズがもっとも深刻な国でさえ、 まだ比較的低い。ということは、HIVについても何も知られていなかった段階でHIV感染の拡大に襲われたアフリカと違って、アジアにはまだ破局を避けるチャンスがあるのだ。
     
 WHOの推計によると、現在までの成人感染者は200万人以上にのぼる。これまでのところもっとも感染が激しいのはインド、タイ、ミャンマーだが、他の国々でもHIVは感染しやすい要素を持った人々の間で急速に広がりつつある。
     
     これら3ヵ国では、HIV感染の流行が80年代末に始まったこともあって、1993年半 ば時点でのエイズ患者の累積数は、推定3万人にとどまっていた。しかしWHOでは、今世紀末までには140万人に増えると予測している。
     
     この地域の成人の感染形態としては、無防備な異性間性交と薬物常用時の注射針の共用による感染の比重が圧倒的に高い。同性愛者による感染も多少は存在すると思われるが、この種の性行為は隠れて行われることが多いため、正確な数の把握はむずかしい。
     
     インドの場合、この国の人々はHIVにいかに感染しやすい状況にあるかは、性行為 感染症(STD)の発生件数が毎年数百万にのぼっていることからもうかがえる。STDは、HIVに感染しやすい性行動を示すひとつの「マーカー」(目印)なのだが、それと同時に、根治していないSTDは確実にHIV感染を助長する。ボンベイに近い都市プーナでは、STDクリニックの患者を対象にHIV抗体検査を行ったところ、1991 年には約9%だったHIV感染率が1992年には17%に跳ね上がった。また、1992年には、ボンベイの売春婦を対象にした調査で25%に近い感染率が報告されている。
     
     
 
世界の大半の国には公的な年金制度がない。人々は、老後の面倒は成人した息子や娘が見てくれるものと当てにしている。しかし、エイズは高齢者からこの老後の支えを奪うことになるだろう。しかも、孤児となった孫の世話という負担を背負う高齢者が増えるかもしれない。
     
   
 ミャンマーでSTD患者を対象に行われた調査でも、1989年にほぼゼロだったHIV 感染率が、1991年には8%前後へと急増したことが判明している。こうした高い増加率は、HIVが、たとえば特にコンドームの使用率が低い社会でいったん足場を固めると、いかに爆発的に拡大するかを如実に示している。タイでは、STDクリニックの男性患者のHIV感染率が10%〜20%だということが確認されているが、1991年のある調査によると、調査対象となったタイ男性のうち約半数がコンドームを使った経験がないと答えている。
     
   

 一部のアジア諸国では、婚外性交渉の多くは「浮気」ではなく、金銭と引き換えの「 商品化されたセックス」である。人口地域開発協会会長で、エイズ予防キャンペーンのリーダーのひとりでもあるミーチャイ・ウィラワイタヤーによれば、「欧米諸国の少年 なら最初のデートに出かけるところだが、タイの少年の場合は売春婦を買いに行くことから始まることが多い」という。ある調査では、タイ男性の44%が平均年齢18歳で売春 婦と最初の性体験を持っていることが明らかになった。タイ陸軍医科学研究所の統計によると、1992年に入隊した新兵のHIV感染率は、1990年の2%から3.7%に増加した。 また、最北部出身の21〜23歳の新兵の感染率は、1991年11月の入隊時には14〜19%であったが、それから9ヵ月後には、入隊時には未感染だった兵士のうち3.9%がHIV抗体陽性に転じていた。

     
     ひとたびセックス・ワーカーと顧客の間に感染が広がると、HIVにかかりやすい要 素を持ったハイリスク集団とは無縁の人々まであっという間に感染が及んでいく。タイでは、産院の外来妊婦のHIV感染率が4%に達した州は少なくとも5ヵ所にのぼる。 エイズ・カウンセリング・センター教育支援サービス(ACCESS)のジョン・ウンパコーン所長は、タイにおける感染状況についてこう述べている。「夫がセックス産業 の店に通っていないという絶対の確証がない限り、既婚女性にとって、コンドームを使わないで自分の夫とセックスすることは、いまやリスクの高い行為になってしまった」( 9)
     
     南アジアと東南アジアのエイズの流行は、静脈注射を行う薬物常用者の間で早くから始まったが、現在でも彼らが受けている打撃は深刻だ。薬物静注者は決して均質な集団を形作っているわけではないが、多くの都市では先進国同様、薬物の常用が貧困や犯罪に結びつく傾向がある。しかし、昔からアヘンを吸う週間のある国々では、この種の薬物の常用は、特に年配者の間では、他の国々における飲酒と同じようなものとされてきた。
 
 しかし最近では、この地域の事情も変わり始めている。かつては薬物の常用といえばアヘンを吸うことが中心だったのに対し、最近の若者たちが薬物に手を染める場合には、まずアヘンから精製されるヘロインを吸うことから始め、やがてその効果を高めるた めにヘロインの注射を常用するようになる。この習慣の変化が地域社会に与える影響が深刻化してくると、かつては麻薬に寛容だった社会が、それを非難し否定するようになった。薬物常用者に対するこうした態度は、エイズの出現以来、一段と露骨になっている。薬物常用者が捕まって即刻刑務所に入れられたり、捕虜収容所に似た「リハビリ・ センター」に監禁されたり、さらには路上で襲われ殴り殺されたり、といった制裁を受けているとのニュースが、各地で報じられている。だが、こうした社会的制裁は、いかに軽いものでも、HIVの流行を抑え込む努力の妨げとなる。たとえば、保健当局の関係者がHIV抗体陽性の薬物静注者を追跡調査することはなかなかむずかしい。なぜなら、彼らを自宅訪問することが、家族の面子をつぶし、友人や隣人による排斥を招きかねないからである。
     
     

   
ャンマー(旧ビルマ)のシャン州に住む人々は、政府がエイズの存在を公に認める数年も前からエイズのことをよく知っていた。それは「外からやってくるこわい病気」として知られていたのである。
     
     
     今日、HIVは「黄金の三角地帯」として知られる地域で急速に広がっている。ここはラオス、ミャンマー、タイの国境地帯で、世界のほとんどのアヘンとヘロインが生産されているところだ。
     
     ミャンマーでは、貧困と厳しい麻薬取り締まりによって、感染率が激増している。注射針も注射筒も高価なため、多くの人々は注射器を間に合わせで作り、他人と共用する。あるいは、何人もの客に同じ注射器を繰り返し使う売人に薬物を打ってもらう。注射器の共用を助長しているもうひとつの要因は、医療専門家と糖尿病患者以外の人が、注射針と注射筒を所持しているのが警察に見つかると、薬物静注を行っている証拠とされ、法律で厳しく罰せられることである。さらに、注射針の共用には仲間意識を表すという側面もある。
     
     ミャンマー同様に、インドも黄金の三角地帯を中心とする麻薬とエイズの旋風に巻き込まれており、ここでもエイズが薬物常用者の間で広がる様子が顕著に見られる。ヘロインは、ミャンマーと国境を接する北東部のマニプール州の人々の間に1984年頃から浸透し始めたが、それに引き続いて注射の習慣が薬物常用者の間でたちまち広がった。インドの国立コレラ腸疾患研究所の調査によれば、マニプール州の人口180万人のうちおよそ1万5000から2万人が静脈注射を行う薬物常用者だと推定される。薬物の常用は、最初は中産階級の教育程度の高い若者から始まったが、いまでは社会のあらゆる階層に急 速浸透している。マニプールの北隣りのナガランド州をはじめインド国内の他の地域でも、同じような傾向が見られる。
     
     薬物静注者の間でHIV感染率が激増しているタイでは、ヘロインの常用は、直接的 には注射針の共用を通じ、間接的にはセックス産業との複雑な結びつきを介して、HIVの蔓延に深く関与している。農村を訪れる人集めのブローカーの男たちは、レストランや喫茶店、一般家庭に住み込みの仕事があるというふれこみで若い女性をスカウトするが、実はその目的は彼女たちをセックス産業で働かせることなのである。なかには、家族が、借金を払うために娘を一定期間働かせる(債務奴隷として提供する)ことに同意したり、自分の娘を即金で「売る」場合もある。
     
     チェンマイ山岳民族福祉開発センターによれば、山岳民族によっては、売春の世界に送り込まれる若い女性の数が、5人に1人の割合にのぼっているという。このようにしてスカウトされた女性が、仕事に慣れるまでの間、売春宿のオーナーに監禁されてしまうことも少なくない。だが、こうした話が村で語られることは滅多にない。なぜなら、最新流行の化粧をし服を着て帰郷する若い女性たちにすれば、このうわべの華やかさを手に入れるために、そして家族の生活を支えるために自分たちがどんな代償を払わなければならなかったかを明かすことは、自尊心が許さないからだ。
     
     こうした女性たちのHIV感染率がきわめて高いことは知られている。彼女たちのほとんどが、読み書きができないし、タイ語も話せない−それに、エイズ情報を彼女たちに伝える努力もほとんどなされていない−といった事情から、感染に対してきわめて無防備な状態にある。また、彼女たちは、地元のタイ男性向けの低クラスの売春宿で働くケースが多いが、そこではひとり約1〜2米ドルの料金で一晩5〜10人もの客をとり、しかも稼ぎは売春婦と宿のオーナーとの間で折半、というように労働条件が劣悪で、これが彼女たちをますます感染させやすくしている。
     
     無防備な性交渉と薬物静注のほかに、南アジアと東南アジアの一部では、汚染された血液の輸血がエイズ流行の一因だと考えられている。インドでは、輸血用血液の売買と血液製剤の製造はビジネスとしても大きいうえ、ほとんど無規制状態である。供血者の感染率はさまざまだが、一般にプロの売血者のほうが、無償の自発的な献血者よりも感染率は高い。血液スクリーニング用の設備があるのは主要都市に限られており、供血された血液に対するHIV抗体検査の実施率は1989〜90年の時点で推定30%未満だった。しかし、1994年までには血液の60〜70%以上を検査することが目標として定められている。輸血によるHIV感染の危険性を最小限に抑えるため、保健省とインド医学研究審議会は、政府の医療機関では一般市場(有償の供血者)から調達された血液は一切使用しない、との方針をとっている。
     
     インド、ミャンマー、タイで起きた事態は、この地域のほかの国々でも容易に繰り返される可能性がある。とりわけバングラデシュ、インドネシア、マレーシア、ネパール、スリランカなど、もぐりの薬物注射や男性による男女の売春が横行し、STD罹患率が高く、一晩限りのセックスでも決まった相手とのセックスでも一般にコンドームの使用率が低い国々では、この可能性は高い。カンボジア、ラオス、ベトナムなど、対外的に孤立していた共産主義体制から脱しつつある国々もまた、人々がいま大きな社会的経済的変動のさなかにいるという意味で、HIVに感染しやすい要素を多く持っている。したがって、南アジアと東南アジアの全域で、教育、コンドームの普及促進、地域社会を中心としたさまざまなアクション・プログラムを実施することが何よりも重要になる。