文章番号:20067
 
第3章 : HIV感染 いくつかの事実
 

 
 
人類にとって幸いなことに、HIVは、水、食物、あるいは空気を通じて伝播することはない。もしもそうであったならば、人類は絶滅の危機に瀕しているはずである。
 
 
 
HIVは、主に性行為によって伝播するので、基本的には性行為感染症(STD)である。他のSTDと同様に、HIVは感染した血液や血液製剤、移植臓器や組織(精子を含む)を通じて感染したり、あるいは母親から胎児や乳児へと感染することもある。
     
     
性行為による感染
     
 「疫病は、偶然の産物ではない」。異性愛者のエイズ症例について報告した最初の医師のひとりで、ブリュッセルにある聖ピエール病院のナサーン・クルメク医師はこう語る。「新しい病原体というものは、機が熟すのを待ってはじめて、コミュニティに入り込んでくるのだ」(4)
   
 毎年新たに淋病、梅毒、軟性下疳、性器の尖圭コンジローム(乳頭腫)、性器ヘルペ スなどのSTDにかかる人々は世界中で2億5000万人にのぼると推定される。そんな中で、HIVが拡大する機会がいくらでもあることは、容易に推察できる。多くの国で、HIV感染症はまず、非常に多くのパートナーと性交渉を持つ人々の間に現れた。ただし、ウイルスがこれらの人々以外にも広まっていくのは時間の問題だった。性行為による感染は、世界のHIV感染の約75%を占めている。
     
     

   
世界のHIV感染状況(1993年)
感染経路
 
性交 70〜80%
母子感染 5〜10%
薬物常用者による注射針の共用 5〜10%
輸血 3〜5%
医療従事者の針刺し自己 0.01%未満
     
     HIV感染者との無防備な性交(たとえば、コンドームを着けないままの性交)をするたびに、未感染のパートナーは、HIV感染というリスクに身をさらす。そのリスクがどの程度かは、HIV以外のSTDが介在しているかどうか、未感染のパートナーの 性別と年齢、性交の形態、感染者の病状や進行段階がどの程度か、その段階でのHIV株の毒性がどの程度か、といったさまざまな要因によって左右される。
 
 パートナーのうち最初は片方だけが感染していた563組のカップルを対象に、ヨーロッパで行われたある検査では、男性が女性を感染させる確率は逆の場合の約2倍にのぼると推測されている。(5)
     
     一般に、男性に比べて女性の方が性交の際に接触する(膣と子宮頸部の)粘膜の表面積が大きいから、男性よりもHIVに感染するリスクが高い。それに加えて、精液内のHIV濃度は、膣や子宮頸部の分泌液内の濃度よりもはるかに高い。
     
     肛門性交は、それが男女間であるか男性同士であるかにかかわらず、女役のパートナーの組織を傷つけやすいという意味で、膣性交に比べてHIV感染のリスクが大きい。繰り返しになるが、膣性交に関しても、女性のほうが男性のパートナーよりもリスクが大きい。
     
     HIVは精液にも膣分泌液にも含まれるわけであるから、オーラル・セックス−クンニリングスとフェラチオの両方を含む−によって感染するリスクは、理論上は存在する。しかし、実際にこのリスクを科学的に計測するのはむずかしい。それというのも、ほかの性行為をすべてやめてオーラル・セックスだけを行う人はほとんどいないため、かりに感染があったとしても感染経路ははっきりしないからである。しかしオーラル・セックスは、膣性交や肛門性交よりもHIV感染のリスクがはるかに小さいと思われる。このことは、女性同士のセックスによるHIV感染が稀なことからも推察できる。
     
     どんな形態のセックスでも、皮膚や粘膜に擦傷があれば感染のリスクは大きくなる。オーラル・セックスでも肛門性交でも、女性が月経期間中であれば、感染のリスクは大きくなる。
     
     女性の場合、年齢も感染の可能性を左右する要素のひとつと考えられている。10代の女性と45歳以上の女性は、いずれも他の年齢層の女性に比べてHIVに感染しやすい。思春期の女性の未成熟な子宮頸部は、年上の女性の成熟した膣部と比べて、HIVに対する防御効果が劣ると思われる。一方、閉経期には膣の粘膜が薄くなり、乾いてくるので、この段階に達した女性の場合も、防御効果が低下すると考えられる。思春期の少女と閉経期以後の女性の場合、その他の年齢層の女性と比較すると、膣粘液の生産が不活発で、この点も若年と高年の女性がHIV感染のリスクが高い理由だと思われる。
     
   

 HIV感染者については、感染直後のごく初期の段階−つまり抗体が作られる前の段階(「ウインドウ・ピリオド」の期間)−と、感染症が十分に進行した段階に、他人に対する感染力が高くなる。というのも、これらの段階では、血液中のウイルスのレベルが、他の段階に比べて高いからである。

     
     HIV感染の可能性に影響を与えるもうひとつの重要な生物学的要因として、他の性行為感染症の介在があげられる。性交のパートナーがHIV抗体陰性であるか、陽性であるかにかかわらず、何らかのSTDに感染していれば、HIVへの感染リスクは高まる。
     
   
もしも、梅毒、軟性下疳、ヘルペスといったSTDが原因で、HIVに未感染のパートナーの性器や会陰部に潰瘍ができている場合には、HIVがHIV未感染者の組織に入り込むのはきわめて容易になる。さまざまな研究によれば、この場合のリスクは、STDが介在しない場合の何倍にもなるとされている。
淋病やクラミジア症のような非潰瘍性のSTDにかかっている人の場合でも、HIV感染のリスクは高まる。
STDが炎症を引き起こすと、T細胞と単球/マクロファージが、炎症を起こした 性器の周辺に集結する。すでにHIVに感染している人の場合、免疫系の鍵となるこれらの細胞は、結集の際にHIVを運んでくるものもあり、その結果、未感染のパートナーへの感染リスクが増大する。
     
     
 
  セックスによる感染を避ける方法  
     
・セックスを控える
  ・感染していないパートナー同士がお互いに貞節をまもる  
  ・ペニスの挿入をともなわないセックスをする  
・ペニスの挿入をともなうセックスの場合には必ずコンドームを使用する
     
   
 
     たとえ小さなリスクでも、何度も繰り返されれば大きなリスクになるということは、強調してし過ぎることはない。「それは、交通量の多いハイウェーを歩いて横断するようなものです」と、世界エイズ対策プログラム(GPA)の疫学サーベイランスの前責任者、ジム・チン博士は指摘する。「1回の横断のリスクは小さいから、危険を冒してハイウェーを横切れば、もしかしたら10回、いや100回は無事に渡れるかもしれません。でも、同じ危険を冒し続けていれば、そのうち車に轢かれる羽目になるでしょう」
     
     

     
  血液による感染
     
     汚染された大量の血液が直接血液中に入ると、感染率は非常に高くなる。HIV感染 した血液の輸血を1回受けることによってHIVに感染するリスクは、95%以上にのぼると推定されている。加熱処理が施されていない第8因子の血友病患者への投与など、HIVは汚染された血液製剤によっても容易に感染する。
     
     
 
  血液と血液製剤による感染を減らす  
     
WHOの推定によると、現在、先進国で、供血または血液製剤の輸血からHIVに感染するリスクは、輸血1回につき約10万分の1かそれ以下である。血友病患者については、HIVなどのウイルスを不活化するために第8因子を加熱処理する方法が開発されたため、血液製剤による感染のリスクは皆無といってよい。(残念ながら、HIVを殺すために血液全体を加熱処理することはできない)。いまでは、合成第8因子も市販されている。しかし、開発途上国の中には、輸血サービス・システムの不備、熟練スタッフの不足、そして資金不足が障害となって、安全な血液の確保がなかなか困難な国もある。
  安全な血液の供給体制を確立するには、HIV抗体検査だけに頼るのでなく、輸血サービス・システム全体に安全対策を組み込むことがきわめて重要になる。というのも、感染の時点から抗体が現れるまでの「ウインドウ・ピリオド」の期間には、血液のHIV抗体検査を行っても感染は発見されないからである。供血に関しては、血液が感染していないかどうかをできるだけ確認する必要がある.そのためには、感染している可能性のある人々からの供血を避け(供血者に金銭その他の報酬が与えられる場合には、これを実行するのはむずかしいが)、感染のリスクが低い人々からの自発的な無償の供血の確保に力を入れるべきである。それとあわせて、医師や輸血作業にたずさわる人たちに対しては、血液の無駄な使用をやめ、輸血を必要とする緊急事態に備えて在庫を確保しておくべきだということを、周知徹底することも必要だ。血液の代わりに生理的食塩水やコロイドで用が足りる場合も多い。  
     
HIV抗体スクリーニング検査の国別実施率(1992年推定値)
   
     
   
     
     
 傷ついていない皮膚は、ウイルスを防ぐ強力な防壁になる。しかし、HIVで汚染された血液の付着した注射針、入れ墨用器具、その他の皮膚穿孔器具を使用した場合には、ウイルスの「量」が十分に多ければ感染が起こりうる。また、たとえば出術中に飛散した血液が目に入ると、血液で運ばれるこのウイルスが粘膜を通して体内に入る可能性も、わずかではあるが存在する。汚染された剃刀の刃からの感染のリスクも、理論的にはごくわずかにしろ可能性はあるが、この経路による感染についての症例報告はまだひとつもない。
 
    血液を介したHIV感染の可能性は、注入されるウイルスの「量」によって左右されるから、汚染された注射針、注射筒、その他の皮膚穿孔器具を介しての感染リスクは、輸血よりもずっと低い。とはいえ、ヘロイン、コカインその他の薬物常用者の場合は、注射を頻繁に−時には1日数回も−くり返すから、この感染経路は重要な意味を持っている。その結果、薬物常用者による注射針の共用は、先進国、開発途上国を問わず多くの国でエイズの主な原因のひとつになっている。また、これが最大の原因である国もある。
     
     
 
  薬物常用による感染を避ける方法  
     
・薬物常用を控える
  ・静脈注入から、安全な形態(経口、吸入)に切り替える  
  ・他人との薬物の回し打ちを避ける  
・薬物静注のたびに減菌された器具を使う
  ・注射器具を漂白剤で減菌し清潔にする  
     
   
     
     

     
  母子感染
     
 HIVは、感染した母親から胎児に感染したり、あるいは出産中や授乳中に母親から子供へと感染することがある(囲み参照)。これは、母子感染と呼ばれ、世界各地で、HIV感染者の母親から生まれる子供のうち約3分の1が、この経路で感染している。さまざまな調査によれば、母子感染のリスクは、母親が感染したばかりであるか、またはすでにエイズを発症している場合のほうが、HIVに感染していても無症状な期間中である場合と比べて大きい。1993年の全世界のHIV感染者のうち、5−10%がこの経路で感染したと考えられている。しかし、幼児や子供は、感染してからエイズ発症までの進行が非常に早いため、現在すでに、エイズ症例の約20%を占めている。
 
 
  それでも母乳がベスト  
     
母子感染は、母乳によっても起こることがある。出産間近の、HIV感染者の女性にとって、このことは何を意味するのか。子供が生まれたら母親は母乳を与えるべきか、与えざるべきか、の選択を迫られることになる.「自分が感染していると知っている女性は、母乳による子供へのHIV感染のリスクと、授乳しないことによるさまざまなリスクを秤にかけなければなりません」とGPAの政策調整責任者、スーザン・ホルク博士は語る.「まだ多くの環境のもとでは、母乳を与えないと、乳児が下痢その他の伝染性の病気にかかって死ぬ確率が非常に高いのです」「母乳に代わる粉ミルクの使用を論じるには、HIVに感染した母親が、継続的に粉ミルクを購入できることがまず前提となります。粉ミルクの調合説明書を読んで理解できることも条件になります。さらに、汚れていないか水が簡単に手に入ることも必要です」
  これまでの経過を総合すると、HIV抗体陽性者の母親から生まれた大多数の乳児を含めて、いまでも母乳で育てることが、乳児の健康と命を守るもっとも安全・確実な方法であることに変わりはない。エイズの問題とは別にして、この授乳習慣の普及と援護、そして支援がすべての国で推進されるべきである、とWHOとユニセフ(国連児童基金)は強調する。  
     
   
 

 
たちが2年前に開いたエイズ患者専用施設で、初めて仲間のひとりが亡くなったときのことは忘れられない。イアンが属していた教会では、教会員が亡くなるとその死体に香を塗る習わしになっていた。ところが、彼が死んだとき、教会はイアンにこの儀式を行うのを拒んだのだ。彼らはただ、木製の外枠にスチールを内張りした棺を持ってきただけだった。あの当時、施設の中に足を踏み入れようとする看護婦はひとりもいなかった。だから、私たち病人は、互いに看病しあわなければならなかったのだ。イアンの最後をみとった私たちは、やはり自分たちだけで彼を納棺し、棺のふたを釘で固く閉め、封をしたうえで、葬儀屋に引き渡さなければならなかった。葬儀屋もやはり外に立ったまま、施設の中には入ろうともしなかったからだ。「偏見と排斥の多くは、未知のものに対する恐怖に根ざしているのだと思います」
  −ピエトロ・バティストン(7)
 
   
  いわれのない恐れ
     
HIVがどのように伝播するかについての無知こそが−エイズが致死性であること、タブーや社会的に非難される行動との関りが深いことと相まって−偏見と差別が入り交じった残酷な反応を生み出してきた。エイズにまつわる話は枚挙にいとまがない。やせ衰え衰弱した人、母親に先立たれた子供、わずかな身の回りの品と一緒に自分の家から追い出された感染者、感染を理由に解雇された労働者、通学を拒否された子供、そして、これほどひどくはないにしても、HIV感染者・エイズ患者に向けられる侮蔑は数えきれない。したがって、どのような経路で感染するのかを明らかにすると同時に、どんな場合には感染しないのかを明らかににすることもきわめて重要である。
 
 実験室内では、確かに涙、汗、尿、唾液からもHIVが検出されている。しかし、感染するのに十分な濃さのHIVが含まれているのは血液、精液、膣分泌液、母乳だけである。さらに、感染が起こるためにはHIVが皮膚の中にまで侵入するか、粘膜との直接的な接触がなければならない。つまり、ドアのノブ、トイレの便座、食器類、プール、水飲み場の蛇口を介してHIVに感染することはありえない。エイズ患者と一緒にバスに乗ったり、食事を分けあったり、握手したり、抱き合ったりしても、危険はない
 
    HIVが、通常の日常的接触では伝播しないことは、多くの国の研究が明らかにしている。たとえば、アメリカの科学者たちが、エイズ患者と一緒に暮らす206人の子、孫、兄弟姉妹、両親、友人の調査を行った。(6)その大半は、いかにも感染を引き起こしそうな超過密状態の中で生活していた。しかし、平均23ヵ月におよぶ毎日の生活の中で、緊密な接触を重ね、血液で汚れる恐れのある品物や設備を共用していたにもかかわらず、抗体検査ではひとりもHIVに感染した人はいなかった。こうした人々は、何千日もの間、HIV感染者と同じコップを使い、何千回となく家族が抱き合い、キスをし、同じ浴槽を使い、時には同じベッドで寝た(性行為なしで)ことがあっても、感染はしていなかった。
     
    マラリア、デング熱、黄熱病の場合と同様に、当初は、吸血虫がHIVを媒介するの ではないかと懸念されていた。しかし、いまではこうした恐れは完全に払拭されている。疫学調査と実験室での研究によって、昆虫はHIVを媒介しないことが立証された。
     
たとえば、もし蚊がHIVの感染を媒介するとしたら、ある人口集団の間での感染の 広がりは均等になり、すべての年齢層の人々が等しく感染するはずである。しかし、HIV感染の疫学的パターンは、これとはまったく異なっている。一般に性的に不活発な人−15歳以下の若者(母親から感染した幼児を除く)や高齢者−の場合、症例は稀である。また多くの国では、蚊が多い農村部のほうが都市部よりもHIVの感染率が低いという傾向が見られる。
     
     
 
 
 
 
HIV感染者と同じ皿、同じコップを使っても、エイズにかかる危険性はない。
このような接触でHIVに感染することはないのである。