文章番号:20065
 
第1章 : 初期の頃
 

 
 
「1981年6月、私たちはそれまでに診たこともないようなひどい免疫不全の症状を持った若い男性同性愛者を診察した。『正体がよくわからないが、こんな症例には二度と出会いたくないね』というのが正直な感想だった。」
−サミュエル・ブロダー博士、アメリカ合衆国−(1)
 
 
 
新しい病気を追って
   
   1979年、ニューヨークでカポジ肉腫という珍しい腫瘍にかかった若い男性が2人、それぞれの医師の診察を受けた。同様の症状を持つ若い男性の存在がアメリカの他の都市でもすでに確認されていた。さらに、カリニ肺炎というこれまた稀な症例が、アメリカ各地で別個に報告されていた。医師の頭をひねらせた一連の不思議な出来事が、そもそもの発端であったと気づくまでには、かなりの時間が必要だった。
 
 そこで、こうしたバラバラな現象を1枚の絵につなぎあわせる作業が、「医学の探偵 」である疫学者にまかされることになった。それまでは健康だった若い男性に、こんな珍しい症状を引き起こしているものの正体は何なのだろう?共通している事実がふたつあった。まず、すべての患者が同性愛者であったこと、そして、いずれも免疫機能の極度の低下という兆候を示していたことだ。
   
 疫学者とは、病気にかかる人とかからない人の違いはどこにあるのかを解き明かす専門家だ。初期のエイズ患者にもっとも特徴的と思えたのは、彼らが同性愛者だという点だった。そこで、疫学者たちは彼らの生活スタイルから病気の謎をとく鍵を見つけだそうとした(アメリカでは、短期間だがこの症候群がゲイ関連免疫不全〔GRID〕と呼ばれていたことがある)。当時、アメリカのゲイ・コミュニティの一部では、亜硝酸アルミをベースとする吸入覚醒剤「ポッパー」が、広く使われていたので、科学者たちは、これが免疫系崩壊の原因かもしれないという仮説を立てた。しかし、観察の結果、多数のパートナーと性交渉を持ったり、性行為感染症(STD)にかかっていたり、腸内感染にかかっている男性に、エイズがより多く見られたところから、第2の仮説が導き出された。つまり、自分たちの免疫系に過剰な負担をかけすぎているのではないかという仮説である。静脈注射を行う薬物常用者の間にも予期せぬカリニ肺炎とカポジ肉腫が見られるという事実が浮上したにもかかわらず、この仮説は覆えることはなかった。それというのも、エイズ究明の初期の段階では、注射針の共用で起きるB型肝炎などの感染症も、同様に免疫系に過剰な負荷をかけるのではないかと議論されていたからである 。
 
 しかし、まもなく、この新しい症候群に特徴的な症状が、血友病−血中に欠かせない凝固因子である第8因子が欠如する病気で、遺伝による−の男性の間に、そして輸血を受けたことのある男性、女性、子供の間にも同じように現れだした。血友病の治療には、何千人もの供血者の血液から抽出した第8因子が使われる。こうして、状況証拠は、血液中に感染源が存在することを示していた。
 
 世界の他の地域でもまた、医師たちが同じように不可解な病気の発生を目撃し始めていた。「1981年に出席した医学会議のことは、いまでもよく覚えています」と、タンザニアのカゲラ地方担当の医務官、カテンデ・カシャイジャ医師は話す。「そのときの主賓は地方行政長官で、彼は『ヘラの病気』と呼ばれる奇妙な病気がはやっていると私たちに警告しました。『ヘラ』とはスワヒリ語で『お金』のことですが、裕福な貿易業者や漁師たちがその病気にかかるのでそう呼ばれたというのです」「私たち医者は変な話だと思いました。『お金の病気』なんて医学書で読んだこともなかったですから。そこで、私たちは地域医務官に、そういう症例が報告されていたタンザニアとウガンダの国境沿いのいくつかの場所を調査するよう依頼しました。やがて彼が持ち帰った報告では、問題の病気は性病性リンパ肉芽腫で、鼠径(ソケイ=股のつけね)の腫脹を引き起こすSTDだということでした。しかし、何ヵ月か過ぎて、その病気がさらに広がっていること、そしてますます複雑な現れ方をしていることに私たちは気がついたのです。同様の現象に関するアメリカの報告が私たちの目にとまるようになったのは、ちょうどその頃のことでした」
 
 アメリカの例と似た複数の症状を持つ患者が、アフリカやオーストラリア、ヨーロッパにも現れていることに気づいた医者たちは、1970年代終りに同様の症候群を見たことを改めて思い出していた。さらにさかのぼって、1959年においても、そうした症例についての記述がわずかではあるが残されていることが判明した。
 
 しかし、一体何が感染源なのか。幸運なことに、これが緊急の重大問題となった頃に は、さまざまなレトロウイルス−エイズを引き起こすウイルスも属する一群のウイルスの総称−について、多くのことが判明されていた。アメリカでは、ハワード・テミン教授とデイビッド・ボルティモア教授が、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)発見への最初の貴重な手がかりとなった逆転写酵素を発見した。この功績によってふたりは後にノー ベル賞を受賞することになる。次いでロバート・ギャロ博士が、ヒト・レトロウイルスまたはヒトTリンパ球指向性ウイルスI型(HTLV-1)という名で知られるレトロウイルスを同定する過程で、後にHIVの発見を可能にすることになった手法の多くを開発した。
 
 HIVの最初の写真は、1983年2月、パリのパスツール研究所において、電子顕微鏡によって撮影された。そこではすでに、リュック・モンタニエ教授率いるフランスの研究チームが、リンパ腺の慢性的腫脹が見られる若い男性同性愛患者から取った組織から、このウイルスの分離に成功していた。それから数ヵ月後、モンタニエ教授は同僚のフランソワーズ・バレ=シヌーシ博士、それにジャン=クロード・シェルマン博士と共同で、HIVがどのような様相を呈しているかを記述した論文を発表した。彼らは自分たちはエイズの病原体を発見したとこの時点で確信したが、実際その通りだった。
 
 

 
「エ イズに対応するため、地域レベルでも国レベルでも、すでに莫大なエネルギーの結集が見られる。また、真に才能があり、かつ並はずれて献身的な人々の大集団が、科学、公衆衛生、政治、人間性に関わるエイズのさまざまな挑戦に応えて、世界中で立ち上がっている」
−ジョナサン・M・マン、WHOエイズ特別対策プログラム部長−(2)
 
 
拍車がかかるエイズとの闘い
   
 1980年代が進むにつれ、世界中で、男性、女性、子供のエイズ患者が現れた。公衆衛生専門家たちは、自分たちが相手にしているのは、流行の規模も速度も当初の予想をはるかに上回る致死性の症候群なのだということに気づいた。
 
 エイズの脅威に対する認識が高まるにともない、この病気によって大きな痛手を受けた地域で始まった草の根キャンペーンを生かすには、地球規模での支援が必要であることがわかってきた。1983年末にエイズに関する最初の国際会議がWHOによって開催されたのをきっかけに、その後数年にわたって毎年、数々の会議が開かれた。1985年にアメリカのアトランタで第1回国際エイズ会議が開催された直後、WHOの呼びかけに応 じて何人かの科学者と医療専門家が集まって、エイズがこれ以上蔓延するのを防ぐための勧告を作成した。同年の後半に、WHOはアフリカでのエイズに関する最初の会議も 主催している。中央アフリカのバンギで開かれたその会議の目的は、症例報告作成のための臨床基準の確立だった。HIV感染やエイズに関する検査方法はまだ開発されていなかったが、この病気の拡大状況について詳細に把握することが緊急の課題であった。同時にWHOは、エイズの予防と抑制のために必要とされる主な行動は何か、国際的な 対応の原則は何かを明らかにする世界戦略の草稿づくりにも取り組んだ。この戦略は、1987年5月の世界保健総会で満場一致で支持され、同年9月、国連総会で正式に採択された。
 
 のちに世界エイズ対策プログラム(GPA)と呼ばれるようになるWHOのエイズ特 別対策プログラムはすでに活動を開始していた。それは、まず、各国との協力をもとに、それぞれの国が危機に対応するための短期的対策を支援し、次いで、予防、抑制、患 者へのケアなど、より長期にわたる対策を実施する国別エイズ・プログラムを支援することを目的としていた。今日、このエイズ・プログラムは、事実上すべての国で確立されており、そのほとんどは、先に触れたエイズ世界戦略(1992年に改訂)にのっとって、WHOのアドバイスを受けながら運営されている。